柏田 雄一氏 「ウガンダの父」と呼ばれる伝説の日本人

柏田 雄一氏

【プロフィール】
大阪府出身、1931年生まれ。1958年に大学を卒業し、ヤマトシャツ株式会社(現・ヤマトインターナショナル株式会社)に入社。1965年に工場長としてウガンダに渡り、ユナイテッド・ガーメント・インダストリー・リミテッド(略称・ユージルUGIL)を立ち上げる。戦乱の中でもアフリカに留まって事業を続けるも、1984年に当時の政府に追われてやむなく日本に帰国。ウガンダでの功績が認められ、1990年にヤマトインターナショナルの副社長に就任。その後、現ウガンダ大統領からの度重なる懇願を受け、同社を退社し、1999年にウガンダへ戻る。私財を投じて現在のフェニックス・ロジスティクスを立ち上げ、現在に至る。2009年に旭日小綬章を受章。

 

 

アフリカで日本製のシャツが売れている!?

外語大を卒業していたこともあり、ヤマトシャツの当時の社長から新卒なのにいきなり輸出の一切を任されることになりました。外語大での専攻はロシア語だったのですが、何語でも話せると思われたのかもしれませんね。

見本を持ってとにかく世界中を周りましたよ。その当時は戦後の荒廃で日本はお金がなくて、インフラもほとんど潰れていました。だから日本政府は繊維製品を日本で作って、それを世界中で売ろうと考えて繊維業に力を入れていました。アメリカとヨーロッパを中心に私もあちこち回りましたよ。

日本で初めて開催された国際見本市が大阪でありました。ヤマトシャツもそこに展示していたのですが、その時に一人のインド人男性が来て、見本を100枚買いたいと言ってきました。その人はアフリカのウガンダという国から来たと言いました。その時は「ウガンダ?」とどこの国かわからず、それでさっそく地図を出して確認するとアフリカにウガンダという小さい国がありました。「こんなところからシャツを買いに来たのか。」とその時は不思議に思いました。

見本100枚を届けた2か月後、オーダーが入ってきました。向こうが選んできたのはその中でも最高級の真っ白な襟付きシャツで、注文が100ダース、50ダース、100ダースとどんどん入ってくるようになりました。

 

未知なるアフリカへ

社長がウガンダからの注文が急激に伸びていることを知り、私に言いました。「柏田、これおかしいと思わないか。お前知っているやろ、アフリカと言ったらものすごく熱い国、そしてみんな裸やで。裸に槍と旗持って走っている人達だ。それがなぜ日本人も買えないような最高級のシャツを買っているんだ。しかも月ごとに量が増えていく。シャツなんて着ない裸の国でなぜ一番高い白いシャツが売れるのか。柏田、行って見て来い。」

僕はその頃アメリカとヨーロッパが中心で、アフリカに降り立つのは初めてでした。あれはちょうど7月でしたね。7月のここは一番寒い時期で、温度が20度くらいです。日本の7月は真夏で30度超え。だから暑いのを覚悟でプロペラ機から降りたらとても寒いのでびっくりでした。

そして赤い土どころか黒い土で、砂漠ではなく緑が広がっていました。実はここウガンダはとても肥沃な土地で、何でもできる国。日本は黒い土を育てるためにお百姓さんが何年もかかって堆肥を入れたりしながら土作りをしていますが、ここは自然にそういう土地が出来上がってしまうのです。

さっそく誰が買っているのか首都カンパラにある商店に視察に行きました。そしたらその店のインド人の店主が「誰が買いに来るかもうすぐ見せてあげる。」と言い、しばらく待っていました。

するとアフリカ人男性が3人やってきました。ムスリム(イスラム教徒)だから真っ白な長いドレスのような服を着ていたのですが、なんとその下にみんな白のシャツを着ているのです。そして、店に入った途端に「ヤマト、ヤマト、ヤマト」と言うのです。サイズを口々に言い、そのサイズのシャツを3~4枚ずつそれぞれ買っていくのです。ここウガンダで「ヤマト」がシャツの代名詞になるほど有名になっていたのです。

しかも英国製の高いシャツと同じ値段で売れていて、みんな現金で買っていくのです。日本人は当時そんなお金はなくて、よれよれのシャツを買っていた時代に、ここの人達は元気に「サンキュー!」と言ってその高いシャツを現金で買っていきました。あれはびっくりしました。

どうしてそんなお金を持っているのかわからずにいると、「ミスターカシワダ、これからマサカという街までハイウェイで行きます。その間でなぜ彼らがお金を持っているのかお見せします。」と言われました。

黒くピシッとした道路を進みます。するとあちこちにたくさんの畑が出てきました。綿花、その横にコーヒー、そして紅茶の茶畑がありました。みんなそういう現金になる物を作っていたのです。彼らは肥沃な土地でできる自分達の食べ物だけでなく、さらに輸出する農作物を作っていたのです。英国の元首相チャーチルがウガンダを「おとぎの国」と言ったのはその通りでした。

それから、ウガンダ開発公社に行ってチェアマンと話をしました。ものすごい背が高く、顔を見たら怒られるんじゃないかなというくらい怖い顔をしていたので、おずおずと話を始めました。すると、「ここは独立国だ。みんなに仕事を作ってあげないといけない。あなたの工場で作っているシャツをウガンダで作ってくれないか。」と提案してきました。綿花の取れるウガンダで繊維産業というのは職を提供できる最高の産業でした。

もちろん、そこでは即決できないので、その打診を日本に持ち帰ることにしました。

こうして、一旦日本に帰って検討し、社長のゴーサインが出て工場を作ったのがウガンダでの歴史の始まりです。

ウガンダへの道

 

銃を向けられても仲間を絶対に守る

工場を作ったはいいけれど、それから様々なことがありましたね。

工場を稼働させた翌年にクーデターが起こり、旧体制派のガンダ族に対する殺戮が始まりました。

この工場にも銃を持った兵士が入ってきて、銃口を私に向けて「従業員をそこの広場に出せ。」と言ってきました。100人ちょっといた従業員の半分近くがそのガンダ族でした。もちろんここで出したら殺されてしまいます。だから断固として「ノー」を貫きました。クーデター側につくわけでも旧体制派につくわけでもなく、ここの共に働く仲間を守るためです。そのために絶対引くわけにいかなかった。

その気迫に押された兵士たちは仕方なく帰って行きました。そのうちの一人の兵士が僕に説得されて「話せてよかった。」と言い、真剣に「私には妹がいる。うちの妹も雇ってもらえないか。」と言ってきました。僕は「いいとも。」と答えましたよ。

(この行動が噂として広がり、結果としてウガンダ人との信頼関係を大きく作ることとなった。)

 

ミスターカシワダの家を守れ!

1978年にはウガンダ・タンザニア戦争が起こりました。戦況が悪化し、身の危険が迫ったため一旦ケニアに脱出しました。

その数週間後、BBCがラジオで工場の略奪を伝えました。それを聞いて従業員や工場が心配になり、ウガンダに行くことを決意しました。大使に「ちょっと自分の工場が略奪にあったというので見てきます。」と言ったら、「柏田君それだけはやめてくれ!」と言われましたが。それでも、あくまで自己責任で行くことを決めました。

国境はもちろん閉鎖されていて、航空機も飛んでいません。ですからチャーター機で行きました。チャーター機のパイロットは英国人の女性で、彼女に「大丈夫か?」と聞いたら、「何が大丈夫?私は行くと言った。サンキューと言ってよ。」と言われましたよ。

ウガンダのエンテベ空港に5人乗りのセスナ機で向かいました。いよいよエンテベ空港の管制塔の域内に入り、無線交信をしたらすぐに空港の人がリプライしてきました。「着陸の許可がほしい。私の乗客は日本人だ。工場が略奪に遭った。それを確かめに行くだけだ。他の意図は何もない。」と伝えてもらいました。もちろん、空港に飛行機は一機もいなかったです。そこにセスナ機が降りたのです。

降りた途端にタンザニア軍と元ウガンダ軍の混成部隊がジープでやってきて、飛行機を囲みました。全員銃をこちらに向けて、「何しに来た?」と聞いてきます。「工場が略奪にやられたというからそれを見に来た。僕の工場はUGILと言うんだ。」と言いました。すると、一人が「オー、ミスターカシワダ!」と叫びました。元ウガンダ軍の一人で、僕を知っている人がいたのです。スワヒリ語でタンザニア軍に彼が説明してくれました。すると、隊長が「オー、ウェルカム!」と言ってくれ、将校にジープで連れて行ってもらうことになりました。

銃を持ったエスコートを3人乗せて、さっそく工場に行きました。もちろん、見たらすぐに引き返すという約束です。エンテベ空港から工場のあるカンパラに行く途中、あちこちで車がひっくり返っていましたよ。カンパラの街中が略奪に遭い、燃やしカスがあちこちにありました。工場も例外なく、完全にやられていましたね。

従業員も100人くらいそこにいました。通信手段はないけれど、「柏田が帰ってきている!」と話が一気に広がってみんな集まってきたのです。そして、みんな土下座するのです。本当にぼろぼろ泣いていました。「ミスターカシワダ、誠に申し訳ないです。こんなことをしたのは全部ウガンダ人です。本当に残念だと思うし、お詫びのしようがないです。」とみんなが泣くのです。工場を失って悲しいのは自分だけではないと気づきましたね。

ただ、ゆっくりとはしていられず、早くエンテベ空港に戻らないといけないです。すぐにジープを走らせて空港に向かったのですが、その途中に自宅があったので少しだけ寄りました。この状態ではもちろん自宅もやられていると思って覚悟していました。

家の前に着いて見ると、ゲートは閉まったままになっています。よく見たけれど中に入った形跡もゼロです。すると、近隣のウガンダ人達が「ミスターカシワダ、おかえりなさい!」って出てきました。すぐに「周りはみんな略奪にやられている。うちは略奪がなかったのか?」と聞きました。すると「我々が、略奪者が来てもミスターカシワダのことを説明して止めました。」と言うのです。近所の連中がみんなで「ミスターカシワダの家を守れ!」と動いてくれたのです。略奪者に抵抗するわけですよ。逆に彼らがやられるかもしれないのにですよ。

鉄の扉にUGILの紋章とJapanと書いていました。「ミスターカシワダ」と「UGIL」は皆知っています。「ミスターカシワダが帰ってこなくなったらウガンダにヤマトシャツがなくなるよ。」と近所の人が略奪者に説明していたのです。そして、略奪者の間でも「あの家だけは略奪するな。」となっていったのです。

もうそれを聞いたら涙が出てきましたね。「ありがとう、ありがとう。」と言ったら恥ずかしそうに「よかった、よかった。」と言ってくれました。

UGILの紋章

 

ウガンダ人の仕事に対する意識を変える

日本人は清潔好きですよね。整理整頓、聖潔、タイムキープといった日本人が得意とするところがここウガンダは全部だめです。工場をやるとなると、清潔にしておかないといけないし、整理整頓をして生産性を高めることが大切です。しかし、ここの人達は仕事をやっているのにべらべらおしゃべりするのが普通ですからね。話ばかりで仕事にならないです。それを一から全部言って直さなければいけなかったです。

遅れることも当たり前です。8時始業だったら、10分前には工場に入らないといけないでしょう。もう遅刻だらけです。もし雨が降ると雨が止むまで来ないわけですよ。それを雨が降ろうが何が降ろうが、時間厳守としました。遅れたら追い返し、門番に言って鍵をかけさせました。5分でも遅れるたら入れず、「ノー」と言って帰しました。

幸いにして、反発はそこまで起きなかったですね。

 

厳しい現実

(1984年に日本に帰国するも、現ウガンダ大統領からの度重なる懇願で1999年に再びウガンダに戻る。)

これが2回目のチャレンジです。しかし、今回は商売そのものが大変です。

綿花から糸を作って製品にするところまで一貫してやってきましたが、空白の十数年で中国製品にやられてしまったのです。価格が半値くらいなので太刀打ちできるわけがありません。中国で作ったものをわざわざ持ってきてもそれだけ安いのです。新製品を出してもすぐに同じような製品を出してきます。なんとかしてここまで一生懸命やってきましたが、安い中国製品をみんなは買うのでお手上げですね。今は縫製だけを小規模にやっています。

1999年に現大統領から「I beg you.」(どうか頼む。)と言われて再びウガンダに戻ってきましたが、ガツンとやられましたね。これ以上事業を新しくやることはもうないです。

 

 

【編集後記】
混乱の時期をウガンダ人とともに乗り越え、ウガンダの発展のために人生を捧げてきたストーリーに何度も鳥肌が立ち、「ウガンダの父」と言われている所以がよくわかった。同時に、そんな氏でも現在の状況には抗えないという現実の厳しさをまざまざと見せつけられたインタビューであった。

 

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