宮川 圭一郎氏 フランスに日本酒の歴史を刻む男

宮川圭一郎氏

【プロフィール】
福井県出身、1962年生まれ。日本で飲食業・サービス業を経験後、サントリー海外レストラン事業部に入社し、1990年に渡仏。2000年に同社退社後もフランスに残り、新たにファッション業界に挑戦する。ワインソムリエ、日本酒のきき酒師としても活躍し、2007年から日本酒販売を始める。2010年にはGALERIE K PARISを起業。日本の酒類を中心とした卸業に加え、フランスワインのネゴス、レストランコンサルタントにも携わる。また、日本酒についての講演を日本やヨーロッパ各地で行い、幅広い啓蒙活動も行う。1990年よりパリ・イルドフランスソムリエ協会会員。2014年より日本酒サービス研究会・酒匠研究会連合会 SSI International 理事。

 

 

飲食業・サービス業の世界へ足を踏み入れる

独立精神がもともと旺盛だったというのか。一人になりたいという思いが強くて、高校時代の時には既に独り立ちしていました。

一人住まいで新聞配達をしながら生活していました。ある意味、苦学生だったと言えるかもしれません。大学に合格しても、結局行かなかったですしね。とにかくその当時は「いつか自分のお店を持って自分でやる」ということしか頭にはなくて…。最初は喫茶店や色々なところで働きましたね。料理を作ったり、サービスもやったりと、その当時は何をやっているかは今振り返るとまるで何もわかっていなかったと思います。

でも、もともとホテルが好きという事があったのでしょう。いつも彼方此方のホテルを見ていて、「ここに泊まる人間になってみせるぞ。」と、ずっと意識だけはしていました。

ホテルでいつか仕事をしようと決めたのもその時の自分の直感でした。そして、数年後にはある大阪のホテルで宴会の仕事をしていましたね。そこで、仕事の基本、姿勢、仕事の美しさ、そして「人を喜ばせると自分に必ず帰ってくる」という信念などを学ぶことができました。

同時に調理師学校のサービス課にも入り、学業とサービスの仕事を両立させて一心に仕事をしました。ソムリエ職もそこで覚えました。いずれソムリエをやって生きていっても面白いかな?と、この時点で漠然と思っていました。そして、不思議な縁がありましてサントリー海外レストラン事業部に入社したのです。

 

パリのレストランで支配人を務める

サントリーは当時、海外にレストランを40店舗程持っていました。自分はソムリエであったこともあり、最初からフランス志望でした。日本から出る頃にはサービス研究会・酒匠研究会連合会のきき酒師であり、フランスソムリエ協会にも在籍していました。

1990年からフランスに来て、ここで初めて「日本酒とワイン、そしてサービス」が一体となってリンクしていきます。点と点が少しずつ繋がり始めた時でした。

1993年にレストランの支配人になり、充実した時期を過ごすはずでしたが、思いがけなくレストラン改革を経験しました。きっかけは湾岸戦争の勃発でした。この頃からフランスは本当に厳しい時代に入っていきました。この逆境を良いチャンスだと考えて仕事をするしかなく、色々な立て直しを実践していきました。勝負に勝つ仕組みを理解する様になったのは実はこのお陰でしたね。

そして、レストランがようやく復活をした1999年、最高売上を記録するというこの絶好調の矢先にレストランを閉店することが決定したのです。まさに天国から地獄です。そして、「日本に帰ってくるように」という話もありましたが、この地で独り立ちすることを決意してサントリーを去りました。ここからが長い道のりの始まりになります。

 

一転してファッション業界へ

実はこの閉店の話が決まる少し前に、友人でもあった社長から「俺と一緒に仕事してみないか。いずれ社長にしてやるから。」と、お話をいただいていました。とはいっても、業界が全く違うファッション系の何も知らない世界の仕事です。まさかレストランを閉めることになるとは全く思っていなかった為、正直全く本気にしていませんでした。

ですが、どうせ閉店でレストランを辞めるなら新しい事業に乗ってやってみるのも悪くないと考え、やることを決断したのです。2度目の自分の直感です。今までの全てを捨てて新しい世界に入りました。

しかし、飛び込んで始めたものの、そんな簡単で甘いものではなかったです。使うフランス語の言葉は全く違うし、レストランと仕事内容も全然違います。全てが「0」でした。当時、朝は7時から夜は8時頃までぶっ通しで仕事をしましたね。真剣でした。20代に戻った気分ですよ。その社長もやはり普通の人とは違いました。そういう人は見た目以上に非常に気性も激しく、やさしいなんてものではない。教え方も叩くような感じで、バンバンときます。本当に厳しく躾てもらいました。今でも忘れません。本当に良き思い出となりました(笑)。その時すでに38歳になっていました。

ここの仕事で、恐らく年を経てから初めて「素直」ということの大事さを知ることになりました。また、「これしきの事、簡単に乗り越えてやるぞ!」という男の意地みたいなものも自覚するようになりましたね。とにかく100%素直に受け入れ、仕事を本気で愛し、200%その仕事に集中するということができました。

レストランというのは「人を迎える」という、お越しいただいたお客様を喜ばせるのが仕事という感じでしたが、「自分が人を喜ばしに出かけて行く」という本当に正反対の仕事を始めたのです。迎える側から追う側に変わりましたが、仕事が好きだったからこそ早く身についたのでしょう。

 

人から愛されるにはまず自らが人を愛すること

人から愛されるにはまず自らが人を愛すること。言っておきますが、神様に天から願い事が落ちてくるようにどれだけ何度もお祈りしたって、何ひとつも落ちてきやしません。人から好かれたいと思っても、自分から好きにならなければ、愛されるなんて難しいです。自分から愛される人になることです。

自分から話しかけてその人を知る。そうするとその人のことが分かり、対策を練ることが出来る。何をすればその人が本当に喜ぶのかを真剣に考えていくようになります。商売の極意も実は全く同じなのです。人は自分のことを空気の様に少しも気付いてくれません。まずは自分から進んで物事を始めていくことに尽きます。待っていても何も変わらないということを理解しました。やはり、人生というのは自分から愛していくこと、また、熱い情熱というものを持って生きることが大事だと思うようになっていきました。これは今では私の確信ですけどね。

 

やはり飲むこと、食べることが好き

とはいえ、その会社をやりながら、実は週1回レストランでのソムリエの仕事も続けていました。ソムリエとしての仕事のスキルを忘れたくないという思いがあったからでしょう。やはりレストランを忘れきれなかったようです。そこはパリで有名な一つ星フランス料理レストランステラマリスでした。

ようやくファッション業界の仕事がわかりかけた5年後にレストランに戻りたくなってしまいました。「やはり飲むこと、食べることが本当に好きなのだ。」という思いが激しく募ったのです。それが、自分が何をすべきかを初めて悟った瞬間でした。当時42歳。なんと遅い出発でしょう。そして、その会社を2005年、よき思い出を残しながら思い切って去ることを決意しました。

ところが辞めてそのレストランに入った数ヶ月後には、なんと「日本の和歌山に2件のレストランをオープンするから、そこの総支配人で日本に行ってくれ。」とのことで落ち着く暇もなく、シェフの言われるまま和歌山へと総支配人として旅立ったのです。数々の問題を山ほど抱えながらのオープンでした。ここで上手く体制を作り、パリの粋を出しながら快適な空間を出せる様になった時点でフランスに舞い戻ってきました。この時に、人をまとめることはサービスとは全く違うこと。また、粋な雰囲気を出す方法とは一体何なのかを体で会得したようです。

 

Ginjo(吟醸)の誕生

その直後、パリで日本高級食材店立ち上げの話があったのです。すでにレストランの経験もして、物を販売するという経験もした所です。ここでまた、そこの飲料販売責任者として人生の再出発を果たします。人生の岐路って、どこでどうなるのか全く予期出来ないものですよ。その時、既に44歳になっていました。

そして、この販売店の立ち上げに加わって日本酒を売り歩くことになりました。当時、フランスには吟醸、大吟醸酒というカテゴリーが全然なく、日本酒は普通酒か本醸造酒が主流の時期でした。そんな時に吟醸酒を売り歩くということになった訳です。これがいばらの道でした。

どれだけ歩こうと、鳴かず飛ばずで売れません。日本食レストランは当時100件近くあり、当然ですがどこにでも日本酒が入っています。「もう、これ以上はいりません。」という感じでした。そこに吟醸酒というフルーティーでエレガントな値段の高い日本酒を持っていくのです。どこに行っても「残念ですけどもうここには日本酒は沢山あるからこれ以上はいらないですよ。」と言われました。今でも忘れることができないほど総スカンでした。「サントリーにいらっしゃったし、宮川さんは良く知っていますよ。でもね、吟醸酒、それ一体何ですか?そんな高い酒をどうやってお客様に売るつもりですか?売れるはずが無いでしょう!こんな香りの、この味のいったいどこが良いんですか?教えて下さいよ!」という具合に毎日言われ続けましたね。その当時は心底悩みましたよ。

でも、ある時「それを売りたくなる人をもし作ることが出来たならば、簡単に売れるようになるかもしれない。」「初めから吟醸酒は売れないと信じている人ばかりだから売れるはずがない。」「とにかく売る気にさせ、売れる仕組みを作ってあげれば、かえって簡単に売れるかも知れない。」とハッと気付いたのです。

でも、分かるには分かったけど、これがまた難しかった。純米酒一升瓶、一本税抜で30ユーロ位の時代に、持って行った(大)吟醸酒720mlが25ユーロだったかな。最初はどこのお客さんからもブーイング。そこで、グラスで小さく販売してもらう作戦を考え提案していきました。小口で売れば値段が小さく見える。小さく見せることで、お客さんにワインのように簡単に飲んでもらえることができるし、値段も押さえて販売してもらえる。そうして、一軒、また、一軒と販売が増えていったのでした。今考えると良くここまで受け入れていただけたものと感謝で一杯です。

また、フランス人によく「日本酒というのは蒸留酒じゃなくてワインと同じようなものですよ。ただ、ブドウでは無くてお米が原料なのです。」と、説明していました。でも、これでも良くないと思い始めたので、できるだけ「Sake」という言葉を使わないようにして、代わりに「Ginjo」という新しい言葉で売っていくことにしたのです。そうすると、それまで「Sakeはいらない」という人でも、「Ginjoは?」と言うと「何それ?」と聞いてくれるようになりました。そこですかさず、「知らないんですか?それじゃ、一度味見しましょうよ。」って突っ込んで飲んでもらうようにしました。

話し方がとても大事でしたね。人に興味を持たせる時にマイナスの言い方を使わずに、プラスの方向で話を進めることです。そうすることで新鮮で全く違う感覚に感じてくれる様になったのです。

日本食レストランで実践してみると、まるで新しい飲み物のようにフランス人が飲み始めました。しかもワイングラスに入れるとグラスを回してワインのように飲んでくれました。最初は信じられませんでしたが、そこから吟醸酒が徐々にスタートしていったように思います。3年かかって多くのレストランで受け入れていただけるようになりました。

 

Sakeに対する誤解

私がフランスに来て24年経ちますが、吟醸酒が広まってきたパリでも一般消費者の半分以上が日本酒は蒸留酒だと思いこんでいます。透明な飲み物をおちょこで飲んでいるのを見ていると、確かにウォッカに似ていますから間違うのも無理からぬところです。

また、「Sake」という名前もなかなか難しい。中国レストランに行って食事が終わった後に小さいエロチックな入れ物でサービスされるお酒が、日本食レストランのSakeと同じだと思っている一般消費者が半数以上です。中国語でも同じ漢字「Sake=酒」。ですから日本酒を敬遠される人の多いことといったら驚くばかりです。

どこに行ってもSakeという飲み物を知らない人はいない。ただ、Sakeは怪しくて安いアルコール度数の高い蒸留酒というイメージがフランス中に蔓延している。とにかくその誤解を解くところから全ては始まるのです。

その上、どこのレストランでもSakeの注文方法が「爛(かん)」か「冷(ひや)」が一般的です。「何々(銘柄)ちょうだい。」じゃなくて、「燗ちょうだい。」「冷ちょうだい。」そんなふうでしたから、これでは良い日本酒は売れていきませんよね。銘柄で売れていないのだから名前が認知されるはずがないです。そこで、とにかく銘柄をお客様へ説明してもらえるように一生懸命説いて回りました。最近ようやく「どの銘柄を飲みますか」と聞いてくれるようになってきましたが、ここまで正直本当に長かったです。

 

日本食ブーム到来が飲み物に変化をもたらす

2000年頃からフランスで日本食ブームが起きました。魚を生で食べ始めたと同時に、日本食材をよく使う三ツ星レストランができたことも一因でしょう。食材の生化、高級化、調理法の多様化の到来でした。日本食レストランが増えてきたら日本の飲み物も売れ始めると感じ始めた時期でした。ちょうどその時代の転換期に上手く吟醸酒の販売を始めることができました。

実際に売れたのは天地人という法則を理解していたからだと思います。天の時(日本食のブーム)、地の利(フランス料理と飲み物の相性を深く考えるソムリエが多いこの地、フランス)、人の和(日本酒のことを分かってくれるソムリエが増えたことに加え、日本酒を販売する人も増えたことです)です。この3つが揃って吟醸酒ブームが起こってきたのだと今でも信じています。

 

日本人が自分の気持ちだけで売ろうとしても売れません

食があり、飲み物があり、そしてそこに人がいます。その国に居る人にしか理解出来ない沢山のことがあります。現地の人は日本人が日本の国内で考えていることとは全く違う考え方を持っているのが至極当然です。

同じお酒でも日本人とヨーロッパ人が感じる香りと味は違うものなのです。ですから、日本人がそのまま日本から持って来て、同じお酒を売ろうとしても簡単に売れるとは思いません。相手の国を良く理解する必要があるように思います。まず、その国に受け入れられるような形に創意工夫することで売れ初めると確信しています。

そのためには、ソムリエとしての視点、日本酒のきき酒師での観点、そしてサービスや経営者のプロとして、多角的に日本酒を分析、解析することでしょう。できるだけ早くその道のプロになることがやはりとても大事です。そして、それがどのようにしたら売れるのだろうか、売れないには売れない理由があるということを把握していけば見ている世界が変わり、拡販していくのではないでしょうか。

 

やってきたことは全てリンクする

レストランを閉めた時、従業員の家族を守れなかったことに対する辛さ、悲しさを味わい、天国から地獄に落ちました。でも、この大きな挫折を経験して、直感で決めた新しい仕事を楽しみながらやってきたお陰で今の自分があります。

一つしかない自分の人生なのだから、惜しまずに新しいことに挑戦し続けることです。点と点をつなぎ合わせることはすぐにはできませんが、いつかそれらをつなぎ合わせることができて、実を結ぶ日が必ずと言ってもいい程やってきます。何処でどう役に立つかはわかりませんが、その日が来ることを信じるのです。

もし、あの時にファッション系で働いていなかったら、GALERIE K PARISという今の会社も存在しなかった。また、「食」が自分の人生のテーマだとあの時に改めて気付いたから、仕事に集中して、感性も磨かれていったのです。日本酒をやると決めて売り始めた2007年、会社を起こした2010年、そしてここまでに至るにはなんとこれだけの歴史があったのでした。

今では日本酒、ワイン、ウイスキーの販売に加え、人にサービスを教えたり、新規レストランの立ち上げなどのコンサルタント業もやっています。人生は過去にやってきた経験の全てが活きるのだということをどうか忘れないでほしいです。

また、「あそこのホテルに泊まる人間になるぞ。」と決めたことで、そこに行ける人間になりました。「必ずやるんだ!」という強い意識の中に決断があり、それを意識して実践してきたからこそ到達したのです。結局、この年になって分かったことは「何をやりたいか。」という人生のコンセプトを早く持って実行することに尽きるということです。決めてしまえば早く到達しますし、やりたいと思った瞬間からそこに潜在意識が働き、自然とそこに導かれ、人が集まり、成就していきます。

人生とは不思議なことばかりが連続して起きる。果たしてこれは「偶然」なのか。私は決して「偶然」だとは思わないのです。全ては「必然」で自分が引寄せてきたのです。

 

日本酒の新しい世界を作りたい

現在進んでいる道は大きな日本酒の新しい世界を作るということです。単純に物を売っている感覚で販売しているのでは無く、私は日本の「粋」を売っているのです。これから日本酒の新しい世界をこのヨーロッパで作り、歴史に刻んでいくことを決意しています。

 

その世界を作ると思った瞬間から、答えはもう出来ています。

これから10年後のパリはおもしろくなっていますよ。どうか見ていてください。

 

 

【編集後記】
これまで日本やフランスで様々な業界、職種を経験し、多くの成功と失敗を重ねたからこそ語られるその言葉には、人生において大事なことがこれでもかと含まれていた。ワインの国フランスで日本酒がどこまで広がるのか。10年後のパリでまた宮川さんにお会いするのが楽しみである。

 

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