池崎博文氏 ブラジルで創業50年、美容化粧品販売大手の創業者

池崎博文氏

 

【プロフィール】
熊本県出身、1931年生まれ。3歳の時に両親と共にブラジルへ移住。化粧品と美容院用美容機器販売を行う池崎商会(本社:サンパウロ)を自ら創業し、業界最大手の企業に育て上げる。サンパウロにある世界最大の日系人コミュニティ「リベルダーデ東洋人街」においては、商工会会長や文化福祉協会会長を長年務める。昨年には、日本人・日系人のシンボルとなっていたニッケイパレスホテルが日本人以外に身売りされそうになったところを個人で買収し、話題となった。

 

 

商売を知る

僕らは移民としてブラジルに来て、バストス(地名)で見渡す限りの綿を植えていた。

(16歳の時に病気で45日間入院し、退院後は養生も兼ねて買い付けの店に奉公しに行くことになった。)

あの時はきつかった。まだ日本人同士の争いはあるし(※)、食べ物は少ない、砂糖はない、油もない。ないものがたくさん。

僕は養生しなくてはいけなかったので力仕事をしてはいけないと言われていた。でも20kgのメリケン粉を5俵も担いでいたよ。病み上がりで体重が45kgしかなかったのに自分もやればできるのだなと思った。夜は倉庫の作物の上に敷布団を敷いて寝ていた。自分の部屋とかもなかったよ。

(こうしたきつい仕事の中でも、商売の仕組みや楽しさを知ったという。)

※勝ち組・負け組抗争…第二次世界大戦後、情報が乏しいブラジルで「日本は戦争に勝った」と信じていた日本人と「日本は戦争に負けた」という事実を知っていた日本人の間で起こった数十年にわたる抗争。

 

僕は百姓をやらない

やっと家に帰ることができた。そしたら親父が「マリンガ(地名)に大きな土地を買ったから向こうに行こう。バストスは日本人同士の激しい争いがあって、いつ何時殺されるかわからない。行方不明になっている人もいる。こういう社会から離れたところに行こう。」と言ってきた。親父は何でも必ずやりきる僕をいつもあてにしていた。

でも「僕は百姓はやらない。サンパウロに行く。」と言った。

「僕は子供だけどわかる。百姓は必要な時に雨は降らない。順調に雨が降った時にはみんな豊作だから値段がすぐに落ちてしまう。それだったら収穫せずにそのまま腐らせてしまったほうがいいという年もあった。それでも一年中、家族を苦労させて、夜中でも仕事をさせる。百姓は博打や。それを何年も何年も続けてきている。百姓はここで見切らなくてはいけない。」と言った。

「子供なのに講釈な野郎だ!」と言われた。「どうしてお前一人でサンパウロ(大都市)に行くなんて言うんだ。お前はまだ青年でもない、子供なんだよ。どうやって親父に反対されて金一つもなしに生きるか?サンパウロに住んではいけない。日本人はみんな立ち退きをくらっている。そういう中でお前はどうやって生きていけるのか?」「行く言うたら、行く。」「なぜ行く?」「もう少し勉強したい。」「だめだ。無理なことをお前は言う。やめたほうがいい。どうやって行く?」「トラックに乗せてもらってサンパウロに向けて行く。行けるところまで行く。1mずつ近づいていく。」「どうやってご飯を食べる?どこで寝る?」「どこかのレストランで残り物を食べて、お皿でも洗っていく。」と決して引かなかった。

僕は毎朝暗いうちに起きて、農具を研ぐ。数日後、まだ朝の太陽が出ていないくらいの時に親父が鼻声を歌いながらやってきて、農具を研ぐ僕の後ろにばったりと止まって何も言わない。叩かれるなと思って後ろをゆっくり見たら笑っている。

「決まった。時は金なり、命なり。みんなでサンパウロに行こう。お前一人で行かせるわけには行かない。マリンガの土地も放ってみんなでサンパウロに行こう。」「お父さん、僕は一人で行くつもりなんだ。家族全員を引っ張っていく力はない。一人で行きたいんだ。」「こういう危ない時代にお前を一人で行かせるわけには行かない。」「だけど、日本人は立ち退きに遭うんじゃ…」「いや、あれは過ぎた話なんだ。」

それでサンパウロに来た。僕は家族の責任者。みんな捨ててしまった。

 

何があっても一番になる

当時、日本人は圧迫されていて下の存在だった。もちろん、今はよくなっていますよ。日本人もよく頑張ったよ。70年近くたいしたもんですよ。

日本人はみんな百姓だった。だから手っ取り早く商売を始めるなら八百屋が簡単にできる。それから洗濯屋があった。ちょっと慣れればできるから。それで僕はサンパウロに来てまず洗濯屋に見習いで入った。

半年見習いをやったらすぐに要領がわかって、その見習いをしていた洗濯屋を買ってしまった。百姓に比べたら簡単で、毎日金が入るからよかった。洗濯の石鹸とか安いものだから、ほとんど利益だった。

途中でドライクリーニングを始めた。サンパウロにいる連中は紳士で、立派な服に、手袋、帽子、ステッキとみんな正装していた。でも自分の家では立派な服は洗うことができないから全部うちに持ってきた。うちは最新の機械を揃えていた。長いこと洗濯屋をやっていて、変わらずはけだけで仕事をしている人が「あんな機械を使ったら、着物がみんな悪くなってしまう。破れてしまう。」と言っていた。だけど世の中そうじゃない。進歩したものをどんどん先取っていかないと遅れてしまう。結局、周りの洗濯屋は全然太刀打ちできなくなった。

借金して借金して大きくして、毎年お客さんが増えていったよ。結局、一番の大きな洗濯屋になった。

そんな時、ある人が「洗濯屋をやりたい。一番儲けているこの洗濯屋をどうしても売ってくれ。」と言ってきた。それで、売った。

そして、今度は洗濯屋の薬品を販売することにした。洗濯用の薬品を全部僕が売った。シェア90%でブラジル全土に卸した。僕はやるなら一番にならなくてはいけないという気持ちがある。何があっても一番にならなくてはいけない。

そのうちに洗濯物を自分自身でみんな洗うようになって洗濯屋が廃れてきた。一方で、生活がよくなってきて美容院に通う人が増えてきた。みんな白髪だらけで仕事をしていたのが髪を染めたり、パーマまでかけたりするようになった。ちょっとお化粧したり、マキアージュまで塗るようにもなった。

洗濯屋さんが減っていく代わりに美容院が増えていく。だから僕も美容院の品物も売るようになって、それが現在まで続いている。ライバルはもちろんいっぱいいた。でも僕が良かったのは洗濯屋さんに卸していたから。そこの娘さんとか奥さんとかが次の商売として美容院を開く。そこに必要な物を全部うちで製造してすぐに売ることができた。

 

社会が不景気でも、自分が不景気になる必要はない

時期が悪いとか社会が不景気だからとか言うけれど、社会が不景気だって自分が不景気になる必要はない。そういうつもりでやっている。本社のビルも一番不景気な時に建てた。

あの頃はインフレがすごくて、「品物を買って仕入れて、それを売って、その金でまた仕入れに行ったら今度は半分も買えない。どうしよう。」というのが周りのみなさんの言葉だった。だけど僕は一人、「君らの考えを変えないといけない。普通の時代ではないのだから、スピードと度胸がないといけない。」と言った。ほら吹きだと言われた。だけど僕は「見せてあげるよ。この大統領の任期が済むまでにこのリベルダーデに一番高いビルを建てるよ。」と言って、本当にやった。

例えば僕はこれを売っているとする。今10レアル(ブラジル通貨)とする。新しいのは30%値段が上がって13レアルで買って売らないといけない。でも10で買ったものが少しあれば13で買ったものと混ぜたら平均は13以下になって安くできる。これをもっと考えていく。値段が10レアルから13レアルに変わる日がある。その前の日までに大量に10で買っておく。次の日には製造元は13している。僕は13より安く売ることができる。製造元は13で売っているから、製造元とも競争ができる。同じことを200件くらいある製造元でやる。

「明日になったらもっと安くなるから」とデフレの時には誰も買いに来ない。でもインフレの時は「明日になったら品物が高くなるから今日のうちに買っておこう」とみんな走ってくる。だから大量の商品をとにかく早く売っていかないといけない。製造元よりも安く買えるし、1箱買わないと製造元は売ってくれないがうちにきたら1つからでも買える。もう誰も僕と競争ができない。製造元もできない。他の問屋も製造元に買いに行かずに僕のところに買いに来る。

 

自分の巣をまずは作る

商工会でいつも「街づくりが大事だ。」と言っている人がいた。でも僕は「みんな借りた家でしょう。街づくりの問題は第二の問題にして、第一に自分のビルにする話をしましょうよ。」と言った。「街づくりをしていたら家主に家賃をもっと高くしようという考えが出てくる。よそからナンボで権利買いますと言われたら家主はあなたを追い出す。だから立派な店に改造する前にまず家自体を自分の物にしましょう。そしたら根が張った地盤ができる。」

結局、やったのは僕だけ。「1%にもならない家賃なのに、どうしてわざわざ買う必要があるのか。それよりも今は品物に投資したほうがいい。」と周りは言った。「いや、品物よりもまずは安定した自分の巣を作らなくてはいけない。ツバメみたいに借家の軒下に巣を構えていてもしょうがない。自分の場所を作らないと。」と僕は考えた。ちょっとした考え方の差ね。

 

信用を作ることが一番大切なこと

例えば僕は1万円の収入をもらっている。しかし2万円ないと生活できないとする。1万円足りないがどうするか。そこで1万円で生活できるようにしようとすると、それだけで手いっぱいになる。だから逆に3倍、10倍と収入を増やしていくにはどうするかを考えないといけない。どの商売にも当てはまる。増やす道を考える。全ては考え方。

でも相手が信用する考え方でないといけない。契約書は最初に話し合いを結んだ時に忘れないようにするものであって、ただの言葉だよ。「あの人が言ったら大丈夫。契約書がなくてもあの人が言ったら安心していいよ。」そうならなくてはいけない。それがなかったら何も始められない。最初に信用を作る、それが一番大切なこと。

 

世界一に僕はなりたい

世界第二位の化粧品の展示会をサンパウロで開いている。イタリアが一番でかくて、その次の規模。いつもサンパウロの市長に「これ以上でかい場所はないか。僕はここでストップするわけには行かない。もっとでかい場所を作ってください。僕はもっと大きくなりたい。」と言うと、「池崎ちょっと待て。」と言われる。

サンパウロ一位でもブラジル一位でもなくて、南米一位でもない。世界一に僕はなりたい。

もちろん大変ですよ。世界中からたくさんの人が来る。でも、大変だろうと人間やろうと思ったらやれる。気持ちと度胸だ。やり抜かなければいけない。

 

一つの会社の名前で50年やっている会社はほとんどない

ここでは労働者を守る労働法で会社が潰される。政治家は労働者を守って多くの一票をもらう。一票は一票だから。

例えば1週間働いて、もう3年働いたと裁判で言う人がいる。裁判になったらどんな嘘でも保証人を付けて本当みたいにしてしまう。保証人は嘘ばかり専門に言う人がいる。だから会社はすぐに負けてしまう。我々はブラジル全国で商売をしていて、奥地のアマゾンでも訴えられる。行かなかったら向こうの言っていることが正しいと認めることになるから誰か行かなくてはならず、その穴埋めばかりしなくてはいけない。

全然違う会社の人がうちを訴えてくることもある。うちの従業員ではないですよ。うちの品物を売っている普通の店の従業員で、もう無茶苦茶ですよ。そういうことがいっぱい起こって会社の発展ができない。だから幽霊会社みたいのを作って2年ずつで閉めていく人もいる。訴える人がどんな嘘を言っても簡単に勝つからね。みんな労働法でやられている。

まともな日本人が来たら商売できないですよ。感覚がわからない。日本の法律は正しく、やはり意味のあるもの。税金でもね。嘘を簡単に取り上げて会社をいじめるようなことはしないでしょう。

僕はどんな税金をかけられても、どんなに罰金を取られても一生懸命やってきた。ブラジルで一つの会社の名前で50年やっている会社はほとんどない。普通は続かない。別の名前にした方がいい。それを一生懸命頑張って一つの名前でやっているというのは本当はバカなんですよ。そんな会社ほとんどない。

 

必ず成功する道は開かれている

これからはあなた方の時代。世の中うまい具合にできている。必ず成功する道は開かれている。しかし、それを知らずに一生を過ごす人がいる。自分の道をまだ探し当てていない。

何でもいいと思います。一生懸命にやることだと思います。

 

 

【編集後記】
人の何倍もの努力と知恵を使って、一代でブラジルを代表する企業を育て上げた男の背中は80代とは思えない力強さであった。そして最後に、「これからはあなた方の時代」とおっしゃったのが印象的であった。(池崎さんも危惧されていたが、)日系人社会の力が年々弱まっている中で、もう一度盛り返すために我々に何ができるのか。考えさせられるインタビューだった。

 

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