飯島秀昭氏 ブラジルで業界第2位を誇る美容室チェーンの創業者

飯島秀昭氏

【プロフィール】
埼玉県出身、1950年生まれ。日本で“カリスマ美容師”の草分け的存在として全国に名をとどろかせるも、29歳で突如ブラジルへ渡る。 32歳の時にブラジルで美容室チェーン「SOHO」を創業し、30店舗、従業員1100人の業界第2位の会社に育て上げる。 近年は、日本の心や文化をブラジルに伝えるために、よさこいや掃除のイベントを開催している。 『ぼくのブラジル武者修行 日本人カリスマ美容師の成功物語』(致知出版社)発売中。

 

 

やるだけやって、だめだったら帰ればいい

(カリスマ美容師として多忙を極め、家にほとんどいない状況だった。)

海外に出るきっかけは久しぶりに会った自分の子供の一言だった。

 

「おじちゃん。」

 

自分の子供が「お父さん」ではなく「おじちゃん」と呼んだ。本当にショックで、「俺何やってるの?」とうずくまってしまった。

その時は仕事が楽しくて、お金もあって、家族のために働いているつもりだった。だけどこの一言で小さい頃の我に返った。 俺父ちゃんと遊んだ覚えがない。だから俺が大人になったら、子供と遊んであげる父ちゃんになりたかった。そう思いながらも、いつのまにか進む道が離れて行ってしまった。冗談抜きにショックですくんだよ。

「そうだよ、俺こんな親をやりたかったわけじゃない。もっと子供と一緒に時間を過ごして、いいファミリーを作らなくては。」と思って、その時に東京の生活はもうやめると決めた。妻の実家が長野だったから、長野に帰ってのんびり家族のために仕事をしようと思った。

ところが、長野行きを決めて店探しもしていた時、たまたま地方へ講習に行った。午前中に行ったけれど、講習は夜だった。その間にえいちゃん(矢沢永吉)のショーが近くでやっていて、「えいちゃんのショー見ますか?」と言われたので行ってみた。

そこで圧倒された。彼は俺と誕生日が1年と1日違い。1つ年上なだけなのに彼はショーで完全燃焼しているわけ。俺も完全燃焼したつもりだったけど、まだどこか残るものがあるのでは?」と思った。

俺は若い時に外国に行きたいと思っていた。20歳くらいの時におばあちゃんが亡くなった。おばあちゃんは田舎で生まれ、田舎で結婚し、田舎で亡くなった。悪いとは決して思わないけど、俺は限られたテリトリーではない別世界で生きてみたいという思いが強くなった。

「お前さ、長野帰って後悔しない?やってだめだったら諦めつくよ。でも、やれたのにやらなかったら後悔残るんじゃない?おい飯島、海外に出ろよ。出ちゃえよ。やるだけやって、だめだったら帰ればいい。」と言われた気がした。

その当時は永住権を取れる国が確かカナダとオーストラリアとブラジルだった。ブラジル行きを誘ってくれた人もいたから、結局ブラジル行きを決めた。

 

今までの人生で最高の一年だった

(ブラジル行きを誘ってくれた共同経営者に裏切られ、お金もコネもない中さまようも、なんとか地元の美容室で働き始めた。)

日本に帰ることもできた。でもそういうわけにはいかない。「ばかやろう、人間一回負け犬になったらずっと負け犬だ。ここで終われるか。」とがむしゃらになった。

何もわからないブラジル社会に入ってしまった。それが最高に楽しかった。あの一年は今までの人生で最高の一年だったよ。ライオンの檻の中に子豚が入ったようなものだ(笑)少しでも隙を見せたらやられる。もうめちゃくちゃ。常識がどうだとか関係ない。食った者勝ち、先取り勝ち。

例えば、俺のお客さんが予約しないで来た。その時に俺は裏でお昼を食べていた。お客さんは「飯島はここにいるか?」と聞く。同僚は「飯島はここにはいないよ。僕でよかったら切るよ。」と言った。お客さんが「飯島がいないなら帰る。」と言って帰ろうとした時、俺が店内に現れた。「飯島ここにいるじゃん!」とお客さんは言うが、同僚は「ここにいるかと聞いたでしょ?お店にいるかとは聞かれていない。だから僕でよければ切りますよと言っただけ。僕はだましたつもりはない。」と言う。

それから、「お客がいないから飯食う暇がない」って言葉がある。食事している間にお客さんが来たら取られちゃうから。自分のお客さんがいっぱいいたら、食事の時間をしっかり取ってもいいなと思える。そういう世界だった。

少し慣れてきた頃、土曜日は俺の予約がいっぱいだった。でも、20人の予約があって実際に来たのは7人くらい。なぜこんなにキャンセルが多いのか。なぜ来ないのか。これが毎週続くから絶対おかしいと思った。予約帳を見せてもらい、書いてある番号に電話してみた。すると別の人が出て、「電話番号を間違えているのでは?」と言われた。そう、ライバルが全部予約していたのだ。全部予約を入れてしまえば、フリーのお客さんが来ても俺のところに回されない。

あと、最初は新参者だからフリーのお客さんがなかなか回ってこない。だから入り口にいて、(ポルトガル語ができないから片言で)「日本からの輸入品だ!」「試してみてくれ!」とアピールする。そして、仕事になったらワンマンステージだよ。かっこつけて髪切って、わざと手元を見ないで切るパフォーマンスなんかもやるわけ。お客がきれいに切れたら、お店の中を回ってもらったこともある。お客さん達が「誰が切ったんだ?」と、「あの日本人だ!」となる。

働いていた美容室はチェーン店が8店くらいあって美容師が数十人いた。俺は半年でトップになったよ。

 

自分を追い込むために自分の思った通りのお店を作る

トップになってしばらくして「俺の給料が少ない。」とオーナーに言った「ここのお店の売り上げの60%を売り上げている。このコミッションではやっていけない。もっと増やしてよ。」「そういうわけにはいかない。それはできない。」と言われた。

その頃、他にも色々疑問符があった。世知辛い殺伐とした気持ちになっていて、もっと楽しい職場で、もっといい環境で仕事ができないかと思っていた。それなら自分の店を作ってできるのではと考えた。

お金はないし、保証人がいるわけでもない。何もない。でも冗談抜きで9万ドルくらい必死に借りまくったよ。

借りてお金が手元に来ればこっちのものだから。「土下座しろ?オッケーだよ。靴なめろ?靴なめるよ。なんでもするよ。俺傷つくわけじゃないもん。」そうやって必死に食い下がってお金を借りたよ。

とりあえず9万ドルで自分が思うお店を作りたかった。お金がなくて色々節約して自分が思ったお店を作らなかったら、だめだった時に俺は逃げるだろうと思った。「実は内装にお金をかけられなかったから、、、」と。そうではなくて、自分の責任にするためにお金を借りて自分の思った通りのお店を作った。

でも9月にオープンして、10、11、12、1、2、3、4月、、、なんと7か月で完済してしまったよ。

(お店は軌道に乗り、徐々に店舗も増えていった)

 

狩猟民族に農耕民族がどこまで受け入れられるか

ブラジルという狩猟民族の中で日本人のような農耕民族のスタイルがどこまで受け入れられるのか試してみたい。

僕は美容師を育てる前に人間を育てようと思っている。うちには2つのアカデミーと道場があって、技術はアカデミーで学び、人間性とかは道場で鍛えている。

ブラジルは狩猟民族だから、うちで育った美容師を他が取りにくるのは当たり前。「取られるよりももっと育てる」という考えでやってはいるけれど、大変だよね。人を育てる大切さを教えているのに、誰もそこは学ばない。できあいがあるわけだから楽をして人をそのまま取るだけ。人を自分で育てればコンスタントに従業員を供給できるけど、ヘッドハンティングで来た人間はまたヘッドハンティングで吸い取られてしまうのに。「勉強しろ!」と言いたいよ。

あと、うちは従業員もお客さんも全員時間厳守。時間に来なかったらやらない。「お前バカか。ブラジリアンタイムというのがあって、時間に来ないのがここでは普通だよ。」と言われた。確かにそうだよ。でも、タイムイズマネーではないが、いずれそういう時代になるのだから、今からやらないといけないという使命感があった。

それで最初に従業員に時間厳守を徹底し、次にお客さんの時間管理も徹底した。でも、お客さんにはメリットがあった。飯島のところに行けば9時に行けば9時にやってくれる。だいたい10時には終わるからそのあとすぐ次の予定に行くという計画を立てられるようになった。

 

従業員絶対主義

日本から来た弟子に「飯島さん、なぜこんなに従業員が楽しそうに仕事をしているのですか」と聞かれる。まさに、これがうちの宝

例えば、便所掃除も楽しくなくてはいけない。こっちで便所掃除のイベントをやるわけ。日本からもゲストが来る。学校の便所を借りて、便所掃除をする。うちの従業員はフンフン鼻歌を歌いながらやるわけよ。「飯島さん、もっとまじめにやるように言ってください。」と言われる。俺は「いいんだよ。ここでは便所掃除も楽しくやっていいんだよ。結果良ければ楽しくやった方がいいだろ。」と言ったよ。

「楽しい職場を作る」、それが絶対最初。笑顔のところにお客さんは来る。自分がある程度リスキーな環境にいても、一生懸命お客さんのために尽くすという時代もあった。でも今は違うよ。自分がお腹いっぱい食べずに人に物をあげるのは、人間の本性から言って無理だろ。お客さん第一主義ではなくて、従業員絶対主義だよ。

 

小善は大悪なり 大善は非情なり

創業者が一代ですごいことをやるのはごく普通。「SOHOは100年経ちますけどまだやっていますね。」という老舗のお店を作りたい。

そのために俺は32歳でお店を始め、57歳であえて経営から身を引いた。創立25周年の時にうちの息子も32歳になり、そこでバトンを渡した。さらに25年後の創立50周年の時に息子も57歳になり、俺が会社を渡した年になる。その時に「親父は息子がまだ32歳なのによく任せたな。俺も若いけど3代目に何らかの形でバトンを渡していこうかな。」という、一つの例を作った。

俺はまだ若いからもっと仕事したいよ。楽しいから。でも俺が仕事をしたら次が育たない。俺が降りないと次が伸びないからね。それは息子にも伝えているつもり。何年か何十年かした時に、「あ、親父の考えってこうだったんだ。」とわかる時期が来る。今の俺の想いは言ってもまだわからないよ。

だから今が一番つらい。経験やノウハウがあるから、俺がやればすぐできることがたくさんある。でも、自分で体感しないとわからないことがある。色々教えてしまうと依存性も強くなる。だから我慢して言わないことが大切。

「小善は大悪なり 大善は非情なり」という言葉がある。大きな善というのは心を鬼にしないとできない。子供がヨチヨチ歩きを始めた時、すぐに手を差し伸べたら確かに怪我はしない。歩けるようにもなる。しかし、いつも親が側にいないと歩かない子供になってしまう。

 

たまたま止まった枝 その鳥を待っていた枝

(飯島さんにとっての原動力は?)

かっこよく言ったら「愛」。そして、「使命感」。単純に、「なぜ生まれたのか?」というのがあると思う。それを自分で自覚できた人間というのは、コンスタントにエネルギーがあるし、モチベーションがある。

ある陶芸家の言葉がある。

「たまたま止まった枝 その鳥を待っていた枝」

ブラジルはたまたま止まった枝だったのかもしれない。でもブラジルはひょっとしたら俺を待っていたのかもしれない。自意識過剰?それくらいの想いでないと。

これからは日本の文化や日本の素晴らしいところをブラジルにもっと伝えていきたい。

 

 

【編集後記】

今回のインタビューでは触れられていないが、実は飯島さんは数々のどん底を味わってきた。ブラジルに渡ったばかりの時に共同経営者とうまくいかず異国の地で奈落の底に落とされた。SOHOが軌道に乗ってきた時には突然一時的に失明して髪を切ることができなくなった。一人でも多くの美容師を育てたいと人材の育成に注力するも、それが仇となって労働裁判にかけられて多額の賠償金の支払いを命じられたこともあった。インタビューの中では前向きなお話を終始されていたが、実際は計り知れない苦労を乗り越えてきた方である。その、過去の苦労について多くを語らず全てを前向きに捉えてさらっと笑って話をされる姿が、私にとってとても印象的だった。地球の裏側で決してあきらめず、自分の使命を常に考えて前に進みつ続けてきた姿に日本の「大和魂」を感じた。

 

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